第四章:近代の道を拓く ― 危機、復興、そして統一

封建時代の終焉は、弓道に最大の危機をもたらした。しかし、その灰の中から、先人たちの情熱と叡智によって、弓道は新たな姿で蘇り、今日に至る国民的武道としての地位を確立していく。この章では、その激動の近代史を追う。

4.1. 明治の危機:衰退と堕落

1868年の明治維新は、日本の社会構造を根底から覆した。武士階級の解体は、彼らが担ってきた武芸全般に存亡の危機をもたらした 。西洋化の波の中で、弓術は「時代遅れの遺物」と見なされ、公的な道場は次々と閉鎖。その権威は地に堕ちた 。

この衰退期において、弓術の品位を最も損なったのが「賭け弓」(かけゆみ)の流行であった 。都市の盛り場では、的中に金銭を賭ける遊技場が林立し、風俗営業として規制されるほどに盛況を呈した。かつて武士の魂を鍛えた神聖な弓矢が、単なる射的遊びや賭博の道具に成り下がったこの時代は、弓道史における暗黒期と言える 。

しかし、このような世相の中にあっても、弓術の伝統を絶やすまいとする真摯な弓術家たちがいた。彼らは私設の道場を開き、古来の伝統と精神性を守り抜いた。彼らの不屈の努力がなければ、弓の道は歴史の彼方へと消え去っていたかもしれない 。

4.2. 大いなる復興:武徳会と本多利実

明治中期、日清戦争の勝利などを背景に国威が高まると、日本の伝統文化を再評価する機運が生まれた。この流れの中で、1895年(明治28年)、各種武術の保存と振興を目的とする全国組織「大日本武徳会」が京都に設立された 。武徳会は弓術を奨励武道の一つと位置づけ、その復興に大きな役割を果たした。

そして1919年(大正8年)、武徳会は「弓術」の正式名称を「弓道」へと改称 。これにより、弓が単なる技術ではなく、精神的・教育的な価値を持つ「道」であることが公式に宣言された。
この近代弓道の形成において、決定的な役割を果たした人物が本多利実(ほんだとしざね)である 。日置流竹林派の射手であった彼は、近代という新しい時代にふさわしい弓道の形を模索した。彼の天才性は、歴史的に対立してきた二大流派、すなわち武射系の日置流と礼射系の小笠原流を、見事に融合させた点にある。

彼は、日置流の合理的で強力な射術を基礎としながら、小笠原流の優雅で品位のある「正面打起し」の構えを取り入れた 。この「本多流」と呼ばれる新たな射法は、武射の威力と礼射の美しさを兼ね備えており、学校教育などで弓道を学ぶ多くの人々に受け入れられ、全国を風靡した 。本多利実の創造した射法は、多様な流派が乱立していた弓道界に一つの大きな道筋を示し、現代弓道の礎を築いたのである。

4.3. 戦後の統一:射法八節

第二次世界大戦の敗戦は、弓道に再び試練を与えた。GHQ(連合国軍総司令部)の指令により、すべての武道が禁止されたのである 。しかし、弓道家たちの粘り強い交渉により、弓道は「修養の道」として、他の武道に先駆けて復活を許された 。

1949年(昭和24年)、全国の弓道界を統括する組織として「全日本弓道連盟」が設立された 。連盟の喫緊の課題は、全国大会や段級位審査を公平に行うため、流派ごとに異なっていた射法や体配(動作)に統一した基準を設けることであった 。

この課題への答えが、戦後の弓道家たちの叡智を結集して制定された「射法八節」(しゃほうはっせつ)である 。これは、矢を射るまでの一連の動作を「足踏み」「胴造り」「弓構え」「打起し」「引分け」「会」「離れ」「残心(残身)」という八つの基本的な段階(節)に分解し、体系化したものである。

射法八節の制定は、単なる技術的な統一作業ではなかった。それは、多様な流派の伝統を尊重しつつ、一つの共通言語を創り出すという、困難な調整の産物であった。例えば、射礼や体配の基本は小笠原流の作法が中心に採り入れられ、弓の上げ方(打起し)は本多流の「正面打起し」と日置流の「斜面打起し」の両方が認められるなど、各流派への配慮がなされた 。

この統一された射法の確立は、弓道が近代的な武道として、また学校体育の一環として広く普及するための不可欠な基盤となった 。それはまた、戦後の日本が、弓道を軍国主義の残滓ではなく、平和的な教育と自己修養の道として国内外に示していくための、重要な文化的宣言でもあった。この時期、スポーツとしての側面が強い西洋のアーチェリーとの違いも明確化され、弓道は独自の道を歩むことを選択したのである 。

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