第四章:心身の鍛錬

弓道は、技術の修練(技)と精神の修養(心)、そしてそれを支える身体(体)の三位一体によって成り立つ。高みを目指す者は、射の稽古と並行して、心と体を体系的に鍛え上げる必要がある。

4.1.射手のための身体鍛錬

弓道で求められるのは、爆発的な筋力ではなく、正しい姿勢を長時間維持するための持久力と、安定した動作を生み出す体幹の強さである。

筋力トレーニング

  • 体幹:胴造りの安定性を保つために、プランクやサイドプランクといった体幹トレーニングは極めて有効である。
  • 背筋・肩周り:引分けの主動力となる広背筋や僧帽筋を鍛えるために、バックエクステンションやローイング(懸垂など)が推奨される。
  • 上腕:弓を押す弓手の上腕三頭筋を鍛えることは、安定した押しを維持するために重要である。

柔軟性と可動域

  • 肩甲骨:深く安定した会を実現するためには、肩甲骨周りの柔軟性が不可欠である。肩甲骨の可動域を広げるためのストレッチを日常的に行うことが、射癖の予防と射技の向上に繋がる。

鍛錬の哲学

身体鍛錬は、あくまで正しい射技を補助するためのものである。筋力で弓をねじ伏せるのではなく、正しい射形を無理なく遂行できる身体を作ることが目的である。

4.2.不動心を養う

弓道における最大の敵は、自分自身の心の揺らぎである。試合や審査のプレッシャーの中で、平常心を保ち、何事にも動じない「不動心」(ふどうしん)をいかに養うかが、上達の鍵となる。

弓道における最大の敵は、自分自身の心の揺らぎである。試合や審査のプレッシャーの中で、平常心を保ち、何事にも動じない「不動心」(ふどうしん)をいかに養うかが、上達の鍵となる。

メンタルトレーニング:

  • 呼吸法: 腹式呼吸や、息を吐くことを長く意識する呼吸法は、自律神経を整え、緊張を緩和するのに即効性がある。射の直前だけでなく、日常生活から意識することが重要である。
  • イメージトレーニング: 完璧な射を、射法八節の最初から最後まで、鮮明に心の中で思い描く練習である。試合会場の雰囲気や音、観客の視線といった外的要因も含めてイメージすることで、本番でのプレッシャー耐性を高めることができる。
  • マインドフルネス(瞑想): 「今、ここ」に意識を集中させ、過去の失敗や未来への不安といった雑念から心を解放する訓練である。これにより、一射一射に集中する能力が高まる。

4.3.壁を越える ― 射癖の矯正

射癖(しゃくせ)は、上達の過程で誰もが直面する壁である。しかし、それは単なる悪い癖ではなく、射法の基本原則に対する理解の不足や誤りを知らせてくれる貴重なフィードバックである。

早気(はやけ): 会で十分に持ちこたえられず、意図せず早く離れてしまう最も一般的な射癖。

  • 原因:的中への焦りや離れへの恐怖といった精神的な要因、あるいは胸部の筋肉の過緊張など、技術的な欠陥が複合的に絡み合っていることが多い。
  • 矯正法:精神と技術の両面からのアプローチが必要となる。一時的に的中を度外視し、巻藁でひたすら会を持つ練習をする、他者に秒数を数えてもらう、呼吸に集中するなど、早気の引き金となる条件反射を断ち切るための多様な訓練法がある。

もたれ:早気とは逆に、離すべき機が熟しても離すことができない射癖。

  • 原因:過去に弦で顔を払ったなどのトラウマや、伸合いのない「死んだ会」になっていることが主な原因とされる。
  • 矯正法:自信を段階的に取り戻すことが重要である。もたれが発生しない安全な状況(例:巻藁稽古)で、伸合いのある生きた会を再構築することから始め、徐々にプレッシャーのある状況に慣らしていく。

射癖診断と矯正法の手引

射癖:主な症状/射法八節における根本原因(例)/矯正のための稽古法(例)

  1. 早気 (Premature Release)
    会が短い、または形成されずに離れる。矢勢が弱い。/引分けでの胸部・肩の力み。会での伸合いの不足。離れへの恐怖心。/巻藁で的中を考えずに会を持つ練習。他者に右肘を支えてもらい、強制的に会を保つ。呼吸法の実践。
  2. もたれ (Delayed Release)
    会が異常に長い(10秒以上)。無理やりこじ開けるように離れる/伸合いがなく、力が停滞した「死んだ会」。過去のトラウマによる離れへの躊躇。/もたれが起きない段階(徒手、ゴム弓、巻藁)で、伸合いのある会を反復練習し、自信を取り戻す。
  3. 緩み離れ (Collapsing Release)
    離れの瞬間に、馬手(右手)が的方向へ少し戻る。矢が下に落ちる(掃き矢)。/会での伸合いが途切れ、弓の力に負けている。馬手の力み。/伸合いを最後まで持続する意識。大離れを意識し、右肘を背中側に大きく開く練習。
  4. 弓手のブレ (Unstable Bow Hand)
    離れの瞬間に弓手(左手)がぶれる、または的方向に流れる。/手の内が正しく形成されていない(握りすぎ)。体幹の不安定さ。/手の内の基本を再確認。角見を効かせる意識。体幹トレーニング。
  5. 矢所が上下に散る (Vertical Arrow Grouping)
    矢が常に的の上または下に集まる。/上に行く場合: 離れで馬手が下がる、弓手の上押しが弱い。 下に行く場合: 緩み離れ、弓手の上押しが強すぎる、体が前に突っ込む。/ビデオで射形を確認し、離れの軌道や体の軸を修正。手の内の上押しと下押しのバランスを調整。
  6. 矢所が左右に散る (Horizontal Arrow Grouping)
    矢が常に的の右(前)または左(後ろ)に集まる。/右(前)に行く場合: 離れで馬手が前に出る、弓手の押しが的の中心から外れている。 左(後ろ)に行く場合: 馬手の引き込みすぎ、体の開きすぎ。/三重十文字、五重十文字の確認。足踏み・胴造りの基本に立ち返り、体の中心軸と的との関係を再設定。

この手引きは、射手が自身の問題を客観的に分析し、闇雲な練習から脱却して、原因に基づいた的確な修正を行うための羅針盤となる。

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