日本の歴史において、弓が経験した最も劇的な変容は、戦場の主役から退き、精神修養の道として生まれ変わったことである。この大転換は、一つの技術革新によって引き起こされ、平和な時代の到来と新たな哲学の流入によって完成された。弓術が弓道へと昇華する、この決定的な時代を検証する。
3.1. 未来の銃声:鉄砲の伝来
16世紀中頃、種子島に一丁の火縄銃がもたらされた。この出来事が、日本の戦いの様相を一変させ、弓の運命を決定づけることになる 。鉄砲は、弓に比べていくつかの決定的な優位性を持っていた。第一に、高度な熟練を必要とせず、短期間の訓練で足軽などの兵卒を有効な戦力にできたこと 。第二に、集団で一斉射撃を行うことで、鎧を容易に貫通する圧倒的な破壊力を生み出せたことである 。
これにより、戦術は個人の武勇や技量に依存するものから、組織的な火力を中心としたものへと根本的に変化した 。長年の修練を積んだ弓の名手は、その戦場での価値を大きく減じ、日本の軍事史における弓の時代は、事実上の終焉を迎えたのである 。
3.2. 江戸のルネサンス:「道」の誕生
皮肉なことに、武器としての弓の衰退は、その精神的な価値を飛躍的に高める触媒となった 。戦という実用的な目的から解放された「弓術」は、自己の内面を探求する「弓道」へと姿を変え始めたのである。
二百数十年におよぶ泰平の世となった江戸時代、武士階級は新たな存在意義を模索する必要に迫られた。戦のない時代に武士であるとはどういうことか。その答えの一つが、武芸を通じた心身の鍛錬(しんしんたんれん)であった 。弓を引くことは、敵を倒すためではなく、自己を律し、精神を統一し、武士としての気概を養うための崇高な行為と見なされるようになった 。
この精神的な深化を支えたのが、禅宗の思想であった。剣豪・柳生宗矩に宛てて沢庵宗彭が著した『不動智神妙録』などに説かれる「無心」や「不動智」といった概念は、弓を引く際の理想的な精神状態を説明するために援用された 。心が何物にもとらわれず、水のように流動的でありながら、動じない状態。この境地を目指す弓道は、やがて「立禅」(りつぜん)、すなわち立ったまま行う禅であるとまで言われるようになった 。
この「道」への転換は、単に武士個人の内面的な探求に留まるものではなかった。それは、武士階級全体の社会的な自己保存戦略でもあった。戦のない時代において、武士がその特権的な地位を維持するためには、単なる戦闘者ではなく、社会の道徳的・倫理的な模範であることを示す必要があった。徳川幕府が社会秩序の維持のために朱子学を奨励したことも、この動きを後押しした 。弓道が重んじる礼節、規律、精神集中といった要素は、儒教的な徳目と見事に合致した。弓を引くという行為は、武士が支配階級にふさわしい人格者であることを社会に示すための、洗練されたパフォーマンスとなったのである。
3.3. 競争の坩堝:三十三間堂の通し矢
弓術が精神性を深める一方で、その技術は驚異的な形で競技化されていった。その頂点が、京都・蓮華王院本堂(三十三間堂)で行われた「通し矢」(とおしや)である 。これは、約120メートルあるお堂の軒下を、一昼夜(24時間)かけて何本射通せるかを競う、壮絶な耐久競技であった 。
通し矢は単なるスポーツイベントではなかった。それは、平和な時代における藩の威信をかけた「代理戦争」であった 。特に尾張藩と紀州藩は、藩の名誉をかけて激しい記録更新合戦を繰り広げ、多くの観衆を熱狂させた 。
この極限状況は、弓具と射法の劇的な進化を促した。より速く、より遠くへ、そして何千回引いても壊れない弓。空気抵抗を極限まで減らした軽い矢。そして、指を保護しつつ正確な離れを可能にする、親指部分を硬く補強した「弽」(ゆがけ)。これらはすべて、通し矢という特殊な競技の中から生まれた革新であり、現代の弓具にもその影響は色濃く残っている 。
この競技の過酷さを象徴するのが、貞享3年(1686年)に紀州藩の和佐大八郎(わさだいはちろう)が打ち立てた不滅の記録である。彼は一昼夜で13,053本の矢を放ち、うち8,133本を射通した 。これは1分間に9本以上という驚異的なペースであり、人間の体力と精神力の限界を超えた偉業として語り継がれている。通し矢は、弓術が実戦から離れ、人間の可能性を探求する新たな地平へと踏み出したことを示す、強烈な象徴だったのである。