第一章:道への第一歩(初心者の道)

1.1.道場に入る

道場は、単なる練習施設ではない。それは自己を鍛錬し、精神を磨くための神聖な空間である。道場に一歩足を踏み入れた瞬間から、弓道の稽古は始まっている。ここで求められる厳格な作法は、弓道の精神性を物理的な行動へと落とし込んだものであり、それ自体が最初の修練となる。

道場での作法(さほう)
道場での立ち居振る舞いは、弓道における精神修養の基礎を形作る。一つ一つの動作に心を込め、丁寧に行うことが求められる。

入退場
道場への入退場は、厳格な手順に従う。まず道場に入る前にコート類は脱ぎ、履物は「入船」(いりふね)と呼ばれる、つま先を道場側に向けて脱ぐ方法で揃える。退出の際は、外向きに揃える「出船」(でふね)とする 11。道場内に入る際は、まず神棚、あるいは正面(上座)に向かって一礼(揖・ゆう)をし、師範や先輩方に敬意を込めて挨拶を行う。

道場内での心得
道場内では私語を慎み、静粛を保つ。指輪やピアスなどの装身具は外し、喫煙は固く禁じられている。審判席や師範席の框(かまち)に腰掛けるといった行為は、場所への敬意を欠くものとして許されない。同輩であっても、道場内では「さん」や「君」などの敬称(けいしょう)を付けて呼び合うのが礼儀である。これらの規律は、自己の慢心を戒め、謙虚な心を育むためのものである。

弓具の扱い
弓具、特に他人の弓具に無断で触れることは絶対にしてはならない。弓は神聖なものとして扱われ、床に寝かせて置いたり、置いてある弓をまたいだりすることは最大の非礼とされる。自分の弓具であっても、その手入れや管理を怠ることは、弓道への取り組みが不真面目であることの現れと見なされる。

矢取り
射終わった矢を取りに行く「矢取り」にも定められた作法がある。安土(あづち)に入る前には、射場にいる人に自分の存在を知らせるために二度手を打つなど、安全確保のための手順を必ず踏む。矢を抜く際は、まず的に中らなかった矢(外れ矢)から抜き、次に的に中った矢を外側から中心に向かって抜く。抜いた矢は、矢羽を上に、矢先を自分の手のひらで覆うようにして、敬意を払って持ち帰る。

これらの細部にわたる作法は、単なる形式主義ではない。一つ一つの動作が、安全への配慮、他者への尊敬、そして自己の精神を律するための具体的な訓練となっている。作法を完璧に身につけることは、射法を学ぶ以前の、しかしそれと同等に重要な稽古なのである。礼を失することは、すなわち弓の道を失することに他ならない。

1.2.射手の服装と道具(弓具の選択と手入れ)

弓具は単なる道具ではなく、弓道家にとって自己の延長であり、修練の道を共にする相棒である。その選択と手入れは、自己の成長段階と真摯に向き合う過程そのものである。弓具を揃える順序は、一般的に「道着と袴」、「弽(ゆがけ)」、「矢」、そして最後に「弓」となるのが通例である。この順序には、初心者が段階的に弓道の世界に深く入っていくための教育的な意味合いが込められている。

弓道衣(道着と袴)

  • 選択: 稽古を始めるにあたり、最初に必要となるのが弓道衣である。体に合ったサイズを選ぶことが、美しい所作と正しい射形のためには不可欠である。特に審査の場では、サイズの合わない服装はだらしなく見え、評価に影響することもある。素材は稽古の頻度や季節に応じて、綿やポリエステルなどを選ぶ。
  • 手入れ: 白い道着は常に清潔に保ち、袴は稽古後にきちんと畳む。服装の乱れは心の乱れとされ、身だしなみを整えることも修練の一つである。

弽(ゆがけ)

  • 選択: 弽は弓具の中で最も個人的なものであり、長年の使用を通じて射手の手の一部となる。初心者は、堅い親指(堅帽子・かたぼうし)を持つ三つ弽(みつがけ)から始めるのが一般的である。サイズが合わないと正しい射の習得を妨げるだけでなく、怪我の原因にもなるため、必ず指導者の助言を仰いで選ぶことが重要である。
  • 手入れ: 鹿革で作られているため、湿気に非常に弱い。稽古後は必ず陰干しし、完全に乾燥させることがカビの発生を防ぎ、長持ちさせる秘訣である。

  • 選択:初心者の矢選びで最も重要なのは「長さ」である。自身の矢束(やづか、喉の中心から左手中指の先までの長さ)よりも10cmから15cm程度長い矢を選ぶことが、安全上絶対の規則である。これにより、射形が定まらない時期に矢が弓からこぼれ落ちる事故を防ぐことができる。素材は、丈夫で価格も手頃なジュラルミン製が初心者に適している。
  • 手入れ: 稽古の前には必ず、箆(の、矢の棒の部分)にひび割れがないか、羽や筈(はず)が損傷していないかを確認する。これは安全を確保するための最低限の義務である。

  • 選択:初心者は道場に備え付けの弓を使用する。自身の弓を持つのは、ある程度稽古が進んでからである。最初に選ぶ弓は、耐久性が高く手入れが容易なグラスファイバー弓やカーボンファイバー弓が一般的である。最も重要な要素は「弓力」(きゅうりょく)であり、初心者は無理なく引ける弱い弓(男子で10kg前後、女子で8kg前後)から始める。強い弓は正しい射形の習得を妨げる最大の要因となる。
  • 手入れ:合成繊維の弓は特別な手入れは不要だが、弦を張る、外すといった基本的な扱い方を正しく身につけることが重要である。空筈(からはず、矢をつがえずに弦を放つこと)は弓に深刻なダメージを与えるため、決して行ってはならない。

1.3.基本の稽古

矢を的に向かって放つ以前に、弓を引くための身体の土台を作り、正しい動作を体に覚え込ませるための基本的な稽古がある。これらの稽古は地味ではあるが、弓道上達の礎となる極めて重要な段階である。

徒手練習(としゅれんしゅう)

弓も矢も持たずに、射法八節の動きを空手で行う練習である。これにより、道具の重さや力に惑わされることなく、純粋に体の使い方、姿勢の作り方、動作の流れを学ぶことができる。全ての稽古の基本であり、上級者になってからも、射の確認のために常に行うべき練習である。

ゴム弓

ゴムチューブを取り付けた短い棒状の練習器具で、初心者が射法八節の一連の流れを安全に学び、弓を引くために必要な特定の筋肉を養うための必須の道具である。

  • 練習方法:ゴム弓を用いて射法八節を繰り返し行う。特に、体の中心軸を保つこと、滑らかな動作の移行、そして後述する「五重十文字」(ごじゅうじゅうもんじ)の形成を意識することが重要である。慣れてきたら、会から逆の順序で動作を戻す練習を行うと、筋力強化に効果的である。

素引き(すびき)

初めて本物の弓の抵抗を感じながら行う練習である。矢をつがえずに弓を引く動作を繰り返すことで、弓力に負けないための体幹や背中の筋力を養い、弓手(ゆんで、弓を持つ左手)の「手の内」(てのうち)を安定させることを目的とする。

  • 練習方法:安全のため、弽は着けずに素手で弦を引く。決して弦を離してはならない(空筈の禁止)。腕の力で引くのではなく、背中の広背筋を使い、肩甲骨を寄せるようにして弓を開く感覚を掴むことが重要である。

これらの基礎的な稽古を疎かにして、いきなり的に向かおうとすることは、砂上の楼閣を築こうとするようなものである。正しい射法は、正しい身体の土台の上にのみ築かれることを、初心者は肝に銘じなければならない。

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