現代の弓道は、全日本弓道連盟によって制定された射法が主流であるが、その根底には、長い歴史を持つ二つの大きな流派の思想と技術が流れている。これらの源流を理解することは、現代弓道の成り立ちを深く知る上で不可欠である。
二つの潮流
礼射系(れいしゃけい): 主に儀式や精神修養を重んじる流派。その代表が ”小笠原流(おがさわらりゅう)” である。
- 歴史と哲学: 鎌倉時代から将軍家の弓馬術礼法師範を務め、武士階級の人間形成のための礼法として弓術を発展させた 。
- 技術: 体の正面で弓を打ち起こす「正面打起し」(しょうめんうちおこし)を基本とし、洗練された礼儀作法と一体となった、威厳ある射法を特徴とする。
武射系(ぶしゃけい): 戦場での実用性を追求した流派。その代表が “日置流(へきりゅう)” とその他多数の分派である。
- 歴史と哲学:室町時代に興り、戦場での実践を第一義とした。その哲学は実利的であり、矢の威力、速さ、貫通力を最大限に高めることを目的とする。
- 技術: 体の左斜め前で弓を構え、打ち起こす「斜面打起し」(しゃめんうちおこし)を基本とし、より実践的で合理的な射法を特徴とする。
現代弓道への統合
全日本弓道連盟が制定した現代弓道の射法は、主に小笠原流の「正面打起し」を採用し、その儀礼的な側面と品格を重んじている。一方で、日置流が追求した、合理的で力強い射を生み出すための技術的な要素も取り入れられており、二大流派の思想が融合した形となっている。この歴史的背景を知ることで、現代弓道の一つ一つの動作に込められた意味を、より深く理解することができるだろう。
小笠原流と日置流の比較
項目 | 小笠原流(礼射系) | 日置流(武射系) |
歴史的起源 | 将軍家師範、儀式弓術 | 戦場の実践弓術 |
基本理念 | 礼法を通じた人間形成 | 戦場での実利性、有効性 |
打起し | 正面打起し 斜面打起し | |
足踏み | 一足開き 二足開き | |
重視する点 | 射形、品格、礼法 | 矢の威力、速さ、的中率 |
この指導書は、弓道の道を志す者が、初心者から範士という最高峰に至るまでの長く、しかし実り多き旅路を歩むための地図である。しかし、地図はあくまで道を示すものに過ぎない。実際にその道を一歩一歩進むのは、読者一人ひとりである。
弓の道は、自己との対話の道である。中らなかった矢は、己の未熟さを教える師であり、中った矢は、修練が正しかったことの証である。しかし、的中そのものが最終目的ではない。真の目的は、一射一射の真摯な繰り返しを通じて、不動の心と円熟した技、そして他者を敬う徳を兼ね備えた、調和の取れた人間へと自己を昇華させていくことにある。
「正射必中」(せいしゃひっちゅう)という言葉がある。正しき射は、必ず中る、という意味である。この「正しさ」とは、射法八節の形が正しいという「真」だけでなく、心が静かで曇りのない「善」の状態をも含む。そして、その二つが一体となった時、見る者の心を打つ「美」が生まれる。
この書が、読者の皆様の弓道における修練の一助となり、生涯にわたる「真・善・美」の探求の糧となることを、心より願うものである。